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【AI音声付き】親子で学ぶかんたんお金の教育vol.4「日本のお金の歴史中編」

親子で学ぶかんたんお金の教育へようこそ
今回は日本のお金の歴史中編です

お金の制度の元を作った武田信玄はどうして滅びたの?

日本初の本格的な貨幣制度を作るほど凄い人だったのに

あと戦国時代は織田信長が一番強かったんでしょ?ママ

そ、そうね、え~とねえ~

織田信長

今回はわしが説明しようぞ

の、信長さん!?

目次

織田信長が勢力を拡大できた秘訣は経済

武田信玄と上杉謙信

日本初の金貨を作り日本初の貨幣制度(かへいせいど)まで生み出した武田信玄。

織田信長

信玄公は恐ろしき人じゃった

そんな優秀な武田信玄が天下を取れなかった原因は3つ。

  • 実の父親を追放しなければいけないほど親子の間で揉めてしまったこと
  • 四方八方すべて敵に囲まれており領土が貧弱だったこと
  • 最大の原因が、すぐ隣に「越後の虎」と呼ばれた戦国最強の武将・軍神上杉謙信がいたこと
上杉謙信

越後の虎とは上杉謙信の幼少期、虎千代と名乗っておりその後も景虎・政虎・輝虎と謙信の名前になるまでずっと虎の字を使っていたため。
「越後の龍」と呼ばれることも。

戦国最強の武将上杉謙信から見れば、優秀過ぎる武田信玄が隣りにいたことでその勢力を拡大しきれなかったとも言えます。

上杉謙信と武田信玄など戦国大名同士で一進一退(いっしんいったい)の攻防を繰り広げる中、信長は順調に勢力を拡大していきます。

織田信長

二人が争ってくれたおかげでわしは勢力を拡大できたのじゃガッハッハッ

上杉謙信

信長殿ともっと戦いたかったのお

焦る信長

げーっ!け、謙信殿・・・ちょっと用事を思い出したのじゃ

上杉謙信

信長殿・・・相変わらず逃げ足は早いお方だ
せっかくなので私も読ませていただこう

日本には武田信玄や上杉謙信以外にも有力な大名がいました。
なぜ信長だけが勢力を拡大し続けられたのか?

戦国時代はとにかくお金がいる時代。

軍資金を集め兵士を雇い戦う、戦国時代はその繰り返しでした。
そのために金山銀山などの鉱山開発と、そこから採れる金や銀が非常に大切です。

お金(経済)を制する者が天下を制す

そんな中、信長は「領内の物の売り買いが活発になれば人が集まる、人が集まればお金も集まる、そうなれば兵士が大量に雇える」と考えます。

織田信長

人が集まる所に金も集まるものよ
ん?用事?すぐに済ませたわ、わしも優秀じゃからの

そのために信長が行ったのが「楽市・楽座(らくいちらくざ)」「関所(せきしょ)を無くす」でした。

楽市・楽座とは
まず楽市というのは、今でいうフリーマーケットでこの場所でならどんな人でも商売をして良いというもの
楽座は、「商品を販売できる資格」を持っている商人しか商売できないというのをやめ、他の商人でもその商売をして良いというもの、今でいう既得権益(きとくけんえき)の廃止

この楽市楽座は他の大名が信長よりも早く起こなっていましたが、これは有効だと徹底して推し進めたのが信長でした。

織田信長

わしもなかなか優秀じゃろ、褒めても良いぞほれほれ

上杉謙信

おほん・・・次に

関所(せきしょ)を無くすとは
関所(せきしょ)というのは、今の高速道路の出口にあるETCのようなものでお金を払わないと通さない、それを当時は関所(せきしょ)と呼んでおり、信長は関所を無くし人が無料で行き来できるようにしたこと

関所画像、引用:箱根関所公式Twitterたまさんの冬の箱根関所より

上記画像引用元となる時代を超えて完全復元「よみがえった箱根関所」の公式サイトがあり、江戸時代の関所のシステムなど詳しく知ることができます。

現地に行けば完全復元された関所の中にも入れます、1度は訪れてみたいですね。

関所(せきしょ)は当時の収入源の1つだったのですが、関所による収入よりも活気ある領内の方が大切だと信長は考えました。
その他にも、交通の便を良くしたり主要な道の整備もガンガン進めます。

織田信長

どうじゃわしは凄いじゃろ、褒めても良いぞほれほれほれ

この道の整備、裏を返すと敵が攻める時に道が整備されていて非常に攻めやすくなります。
そのようなデメリットがありながらも信長は、経済発展を最優先しガンガン道の整備を行っていました。

信長さんさっすが~

さらに信長は南蛮貿易(現在の東南アジア辺りとの貿易)を積極的に行います。
そして極めつけが「お茶の文化」を生み出しお茶と茶器の価値を高め、その茶器を褒美として与えることを始めます。

信長のおじさんって本当に凄かったんだね

上杉謙信

優しいお子さんたちですねえ

茶器の褒美の話でこんな逸話が

信長の家臣の一人、織田家の重臣でもある滝川一益(たきがわかずます)はお城を褒美としてもらったとき
「城よりもわしは茶器が欲しかった
と言った話が残るほど、小さな茶器はお城と同じほどの褒美として重要なものの1つになりました。

この南蛮貿易お茶の文化は豊臣秀吉の時代にも引き継がれます。

織田信長

土地や城を与えなくても、小さな茶器1つで喜んでくれるんじゃから安いもんよのガッハッハッハッ

織田軍の兵は弱かったため「鉄砲」を最大限活用

金目当てだろうが何でも良いと、とにかく大量に集められた兵たちなので信長の兵は弱かった。

勢力拡大してたのに織田軍って弱かったの?

烏合の衆と言う言葉が当てはまるほど弱い兵なので信長はとにかく数の力で戦う。
数で相手を上回り無理せず時間をかけてじわじわ押し切る。

へえ~数の力で戦ったんだ~

そのため数で劣る場合、信長から争いを仕掛けることはまずありませんでした。
信長の生涯で最大の奇跡と呼ばれる狭間(おけはざま)の戦いも相手側から攻められた戦いで、数で劣るときは無理をしません。

そうやって勢力を拡大していき天下統一目前、戦国時代も終わりに差しかかり安心しきっていた時本能寺の変が起きます。
織田家重臣・明智光秀(あけちみつひで)による謀反(むほん)です。

前線に集中して兵を送っていたため、身の回りの信長を守る兵はごく少数。
また領内の関所を無くしてしまったので明智軍がやすやすと移動できた。
そのため信長の命を縮めることになってしまいます。

織田信長

是非もなしじゃ

経済発展を最優先にしていたため、やすやすと裏切りが成功し信長は時代から去ったのでした。

信長さん;;

話は戻り、信長は自軍の兵の弱さを補うため当時の最新兵器「鉄砲」最大限に活用します。

この「鉄砲」を大量に手に入れ、そして自作出来たのも信長が資金をたくさん持っていたからです。

兵が弱くても経済を制することで日本統一目前まで進めた信長。
その経済政策を引き継ぎ活かしたのが豊臣秀吉です。

織田信長

サルめ、うまくやりよったの~

織田信長のまとめ

  • 戦国の世はお金があるものが強い
  • 楽市楽座と関所を無くすことによって信長はお金をたくさん得る
  • そのお金で兵を大量に雇い、最新兵器の鉄砲を集めまくり自作までした
  • 数の力と最新兵器によって勢力を拡大させた
  • 南蛮貿易を活発化させ、お茶の文化という新しい価値観を生み出した
  • 兵を最前線に送り、手薄になった本能寺の変で時代から消える

すみません私にも説明させてください
このままでは出番がなさそうなので・・・

お金儲けの天才そしてお金の使い方も凄かった豊臣秀吉

普通の農民の子どもだった秀吉

秀吉は14歳のころ、家で作った野菜を町で売り歩く行商をしています。

この行商、労力の割には稼ぎが少なく、また売れる時と売れない時の波が激しく、これではダメだ安定した収入を稼がなければと考えます。

そんな時秀吉の幼馴染(おさななじみ)でもある同郷の先輩が、織田家の奉公人の長に昇格したという話を母親から聞きます。
織田家は庶民の出でも見込みがあれば採用してくれるという噂でした。
秀吉は必死に何度も何度も幼馴染(おさななじみ)に頼み込んだそうな。

このチャンスは逃さない!と思ったのね~

何度も頼み込みしばらくして、織田家の使用人として働くことが決定し母親と大喜びしたそうです。

「かあちゃん!やったよーやったー!
 これで不安定な行商人も終わり!明日からは織田家に奉公して頑張るぞおおお」

不安定な職業から安定できる仕事に就けた秀吉
織田家の奉公人として決まってから、どんな小さな雑用にも全力で精一杯取り組みそして毎日毎日一生懸命働く、やがて信長の目に留まります。

織田家の奉公人から、信長の小姓(信長の身の回りの世話をする人)の一人に選ばれます。

信長と秀吉  

有名な草履取りのシーン
「殿!草履を温めておきました!」
寒い冬、信長の草履をお腹に入れて温め、少しでも冷えた足を温めてもらおうと秀吉は考えたのでした

奉公人から小姓に出世できたという喜びもあり、さらに活き活きと毎日の雑用に取り組みます
そして天性の愛嬌の良さもあり信長にいたく気に入られ、信長の期待に沿う形でみるみる出世していきます。

織田信長

サルはよ~働いておったわ

秀吉は、せっせっと働きまたコツコツと貯金をしていました。
秀吉の天才的金儲けは、14歳のころに行商の経験があり商人的感覚を持っていたこと。
そして無駄使いせずお金を貯めるのが上手かったこと。

足軽頭に出世した秀吉は、大金を使い大掛かりな砦を作ったり土木工事を行って人を集めます、たくさん給料がもらえる職人たちは毎晩飲み食いします。

そうなるとその周りに商売をする商人たちが集まってきます
ボディガードをしてやるという約束をして、その商人たちから少しずつお金を取ったのでした。

他にも侍大将に出世し、家来が出来るとその家来を使い、米が豊作で安い地域から大量に米を買い、不作であまりとれなかった地域に持っていき売りさばいていたそうです。
その利ザヤ(安く買って高く売る時の差額)で大儲けする、そうやってお金を貯めていきました。

織田信長

サルめ、やりよるわ

また貯めるだけでなく、ここぞ!という時に思い切って貯めたお金を使います。

例えば織田家の重臣に出世し、備中高松城の城攻めを任せられた時、水攻めを行なうのですがとてつもなく大規模な堤防を築き上げ、とんでもない水攻めを行ないます。

この大規模な堤防をつくる費用は並の武将では行えないレベルでした。
そして秀吉側の兵は、ほとんど無傷でお城を落としたのでした。

織田信長

敵にしてたら恐ろしい男じゃ

秀吉の運命を変えた本能寺の変と直後の素早い行動

そして一番大きな出来事、明智光秀の謀反で信長が討たれる本能寺の変です。
この時に秀吉は有名な中国大返しを実行します。

信長討たれるの第一報を聞いた秀吉は呆然としていたそうな・・・。
14歳で織田家に取り立てられ、そして信長により引き立てられ、サル、サルと言いながらも可愛がってくれた主君信長のことを走馬灯のように思い出していたのかもしれません。
呆然と立ち尽くす秀吉の横で、秀吉の右腕でもある軍師、黒田官兵衛が耳元でこうささやいたそうです。

黒田官兵衛

殿、今が天下を取るチャンスですぞ

それを聞いた秀吉は「ハッ!」とし我に返り、急いで京に戻る準備に取り掛かるのでした。

中国大返しとは
中国地方の毛利元就の領土を攻めている際中でその時に信長死去の報を聞き、すぐさま本能寺の変が起きた京まで引き返す。その距離は約230キロそれを10日間で秀吉がやり遂げたこと

その中国大返しを行うために秀吉は、貯めたお金ありったけの私財を投入します。
現在の価値にすると100億~300億近いお金を使い中国大返しを短期間で成功させたという説も。

ひゃ、100億円以上!?

まず秀吉は京にすぐさま引き返すと兵に告げ、一人一人約30万円の臨時給料を支払います。(当時の一般兵の平均的な年収の約4倍
これで兵たちは大いにやる気をあげ必死に引き返し始めます。

さらにその道中、大量の食事を用意し大軍の寝床も準備し馬やその馬の餌代まで秀吉が負担します。
そうやって常識で考えると不可能な約230キロの道のりを、わずか10日間で大軍が引き返したのでした。

織田信長

サルめ、やりよるわ

これだけの手際の良さ、あらかじめ準備していたのではないか?もしかすると光秀の謀反を事前に知っていたのでは?という説もありますが、その説はここでは省きます、機会があればいつかお話しします。

この時に秀吉は貯めたお金の大半を失いますが、その使った金額の100倍以上をその後信長ができなかった日本を統一し天下人となり回収します。

天下統一

信長の跡を継いだ秀吉が領土を拡大し続け、日本での最後の敵となる北条家の「巨大な小田原城」攻めでは20万もの大軍を動員し周囲をぐるっと囲み、城攻めをしている際中なのに毎日宴会を開き騒いでいたそうです。
その大騒ぎを毎日毎日聞いていた北条側の兵はみるみるやる気を失なったそうな。
この戦い方も莫大な資金のある秀吉ならではの城攻めでした。

織田信長

わしが得意だった「戦わずして勝つ」というやつじゃ

そうやって行商をしていた一介の農民が天下人にまで登り詰め立身出世(りっしんしゅっせ)を果たしました。

立身出世(りっしんしゅっせ)

天下人となった秀吉、豪華なものを作る

天下人となった秀吉は、大坂の都市を日本の経済の中心にしあらゆるすべてのモノが大坂の都市に集まる仕組みを作ります。
おかげで秀吉は莫大な収入(税収)を得ます。

織田信長

わしの真似をしよったな

そしてその力を見せつけるため豪華なものをたくさん作ります。
秀吉が作った世界最大級の金貨でもある天正長大判金(てんしょうながおおばんきん)

画像引用:独立行政法人造幣局より

中でも信長から引き継いだ茶の文化にはかなり力を入れ、茶道家千利休(せんの りきゅう)を重用しすべて黄金で出来た黄金の茶室まで作ります。

黄金の茶室

おお~眩しいですね💦

この黄金の茶室は大人気で、この茶室に入るがため秀吉に大量の貢物をするものまで。

これだけ豪華なものをたくさん作っても、秀吉の居城大坂城には金が9万枚銀が16万枚合わせて250万両以上を貯め込みます。
現在のお金の価値にするとザッと約一兆円ちかくになるそうな。

いっ、一兆円!?

豊臣秀吉のまとめ

  • 14歳のころ行商をしていて商売の感覚を身につけた
  • どんな小さな仕事でも手を抜かず必死にこなして信長の目に留まる
  • お金を貯めることが上手でまたお金を使うことも上手かった
  • 上手くお金を使った最大の成功例が中国大返し
  • 大坂の都市を経済の中心にした
  • 天下人となってからもじゃんじゃんお金を使うがそれ以上に貯まる

信長と秀吉の経済政策を引き継いだ徳川家康

天下人となり栄華を誇った秀吉も寿命には勝てません。
秀吉亡き後、その主導権を握る争い、徳川家康と石田三成による天下分け目の「関ケ原の戦い」が起きます。

織田信長

三成は豊臣家を守るためだったんじゃがの~

石田三成は豊臣家を守るため、では徳川家康は何のために関ケ原の戦いを起こしたのか?
それは秀吉が作った大坂の都市が経済の中心となっていた

その経済体制を破壊するために家康は関ケ原の戦いを起こしたのです。

お金のために家康さんは戦いを起こしたのね~

豊臣が治める大坂の都市が日本の経済の中心、これではいつまで経っても豊臣には勝てない!
徳川が治める江戸の町でも経済を活発化させなければならない!

その結果家康は関ケ原の戦いを起こしそれに勝利し、東日本の経済は江戸で西日本は大坂で行うということになります。

2つの都市がそれぞれ経済の中心になったのでした。

金山

関ケ原の戦いに勝った家康が真っ先に行った1つが、豊臣領だった金山銀山の直轄地変更です。
金山銀山を徳川領にすることで家康は大量の金・銀を手に入れます。

そうして目の上のたんこぶでもある豊臣つぶしに本腰を入れ始めます。
ただ豊臣をつぶすのに最大の問題がありました、秀吉が貯め込んだ大坂城にある莫大なお金です。

これを減らさなければ豊臣方はいくらでも兵を雇い戦いが出来る、このお金を何とかせねばと家康は考えます。
そしてある日豊臣方に提案をします。

秀吉公の菩提を弔う(ぼだいをとむらう・亡くなった方の冥福を祈る)ために、全国の寺社仏閣(じしゃぶっかく)を修繕されてはどうか?それが秀吉公への恩返しとなり、そして豊臣の威光を天下に知らしめることになります!と。

その家康の提案をそのまま実行した豊臣方は、秀吉が貯めたお金をどんどん減らしていきます。
余談ですが、この時の復旧や修繕のおかげで現在国宝になったお寺や神社も。

そうやってお金が減りわずかな兵しか雇えない状態にし、家康は大坂城を攻め豊臣家を滅ぼしたのでした。

織田信長

家康もタヌキよのお~

こうして目の上のたんこぶを取り除き、将軍を頂点とした本格的な徳川幕府の江戸時代が始まります。

信長・秀吉が無くした「関所」を徳川幕府が復活させる

江戸時代になり大きな争いが無くなると幕府は「関所」を再び作ります。

江戸時代の関所は、お金を取るものではなく2つの目的がありました。
1つは鉄砲などの武器が江戸に入らないようにするため。

お金を取る目的ではなかったのね

もう1つが参勤交代により、江戸にいる各大名の女性たちが逃げ出すのを防ぐという目的がありました。

参勤交代とは
1年おきに藩主が江戸で生活し藩主の妻子も江戸で生活させること。
いわば、反乱させないための人質です。
そして参勤交代の江戸への行き帰りで、大名のお金を減らし、かつ幕府の直轄地の各町にお金を落とさせる狙いも。

また大名にお金を強制的にたくさん使わせることで、反乱の芽を摘む考えもありました。

江戸幕府が作った関所の中でも、箱根関所は江戸時代巨大な関所として有名で、その箱根関所を復元したのが上の方で上杉謙信さんが説明した

箱根町 箱根関所『よみがえった箱根関所』 (hakonesekisyo.jp)です。

画像引用:時代を超えて完全復元「よみがえった箱根関所」公式サイトより

この時代を超えて完全復元「よみがえった箱根関所」は当時の関所を忠実に再現しています。
興味のある方は是非1度訪れてみて下さい。

1回行ってみたい~

可愛いイメージキャラクターの「たまちゃんとお杉ちゃん」が主役の公式Twitterもあります。

たま(箱根関所)(@HakoneSekisho)さん / Twitter
お杉(箱根関所)(@hakonesekisyo4)さん / Twitter

たまちゃんもお杉ちゃんも可愛いね!

まとめ

信長そして秀吉は大きな経済力を背景にして勢力を拡大・天下統一を果たしました。

その経済の重要性を知っていた家康は、徳川幕府の江戸時代を安定させるため様々な経済政策を行ないます。
その結果260年もの安定した平和の時代を築いたのでした。

ここまで読んでいただきありがとうございます
それではまた次回お会いしましょう

次回は江戸時代のお金と明治以降の日本のお金についてお話します

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